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神戸地方裁判所 昭和32年(ワ)671号 判決 1964年4月23日

第六七一号事件原告 熊谷組工業株式会社

第九二四号事件当事者参加人 国

第一〇六〇号事件当事者参加人 大阪府

第六七一号事件被告・第九二四号事件参加被告・第一〇六〇号事件参加被告 東邦亜鉛株式会社

第六七一号事件被告 熊谷海運株式会社

主文

一、被告東邦亜鉛株式会社は、原告に対し、金一二〇七万四九三五円及びこれに対する昭和三二年九月三日から右支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告の同被告に対するその余の請求はこれを棄却する。

二、被告熊谷海運株式会社は、原告に対し、金三五〇〇万四五五八円及び内金三四六五万四五五八円に対する昭和三二年九月三日から、内金三五万円に対する昭和三六年一〇月二八日から右各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

三、被告東邦亜鉛株式会社は、参加人国に対し、金三〇〇万円及びこれに対する昭和三三年一〇月四日から右支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

四、被告東邦亜鉛株式会社は、参加人大阪府に対し、金二二二万五〇六五円及びこれに対する昭和三五年一二月一三日から右支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

五、訴訟費用中、原告と被告東邦亜鉛株式会社間に生じた分は、これを三分してその二を原告、その余を同被告の負担とし、原告と被告熊谷海運株式会社間に生じた分は同被告、参加人国と被告東邦亜鉛株式会社間に生じた分は同被告、参加人大阪府と同被告間に生じた分は同被告の、それぞれ負担とする。

六、この判決は、原告勝訴部分につき原告において、被告東邦亜鉛株式会社に対し金四〇〇万円、被告熊谷海運株式会社に対し金一〇〇〇万円、参加人等勝訴部分につき国において金一〇〇万円、大阪府において金七〇万円の各担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

(当事者の申立)

一、原告

「被告等は、原告に対し、連帯して、金三五〇〇万四五五八円及び内金三四六五万四五五八円に対する昭和三二年九月三日から、内金三五万円に対する昭和三六年一〇月二八日から右各支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告等の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求める。

二、被告東邦亜鉛株式会社(以下単に被告東邦亜鉛という)

原告の請求に対し、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、参加人国の請求に対し、「参加人国の請求を棄却する。参加により生じた訴訟費用は同参加人の負担とする。」との判決を求め、参加人大阪府の請求に対し、「参加人大阪府の請求を棄却する。参加により生じた訴訟費用は参加人大阪府の負担とする。」との判決を求める。

三、被告熊谷海運株式会社(以下単に被告熊谷海運という)

「原告の請求を棄却する。」との判決を求める。

四、参加人国

「被告東邦亜鉛は、参加人国に対し、金三〇〇万円及びこれに対する昭和三三年一〇月四日から右支払済まで年五分の割合による金員を支払え。参加により生じた訴訟費用は同被告の負担とする。」との判決並に仮執行の宣言を求める。

五、参加人大阪府

「被告東邦亜鉛は、参加人大阪府に対し、金二二二万五〇六五円及びこれに対する昭和三五年一二月一三日から右支払済まで年五分の割合による金員を支払え。参加により生じた訴訟費用は同被告の負担とする。」との判決並に仮執行の宣言を求める。

(当事者の主張)

第一、原告の請求原因

一、原告は、機船福興丸(総屯数二三四屯、船籍港大阪市)を昭和二三年八月に建造して以来所有し、これを被告熊谷海運に賃貸していたものである。

二、被告熊谷海運は、右福興丸の乗組員として、船長富岡四十治外を選任し、航海営業をなしていたが、昭和二九年七月一七日被告東邦亜鉛との間で、東邦亜鉛対州鉱業所生産の微粉亜鉛精鉱を福興丸にて三航海だけ積取ること、積地対馬下ノ島阿須港南室、揚地大阪及び契島、積載量一航海につき約四〇〇屯、貨物移動防止のための安全設備たるシフテイング・ボード(荷止板)は出荷主において装置することとする等の内容の運送契約を締結した。しかして、右は、被告東邦亜鉛の亜鉛精鉱等運搬の専用船である第八徳豊丸が修理のため入渠している間の臨時の代船であつた。

同月二二日午前五時三〇分頃福興丸は、阿須港南室の被告東邦亜鉛対州鉱業所前の専用棧橋に右舷側を接して繋留した。同鉱業所長は、直ちに同鉱業所業務課運輸係中島友城と打合わせ、同日工作課建築係長間谷通義をして福興丸船倉内にシフテイング・ボードを設置させた後、翌二三日午前九時頃貯鉱舎から亜鉛精鉱の船積を開始した。ところで、同鉱業所としては、当初、福興丸に亜鉛精鉱三五〇屯を積載する予定で、貯鉱舎にそれだけの量を用意していたが、後記のとおり、亜鉛精鉱の特性を知らず、又、同鉱業所からこれを告知されていなかつた福興丸船長は、同船の一般貨物輸送実績と本件の輸送契約屯数が四〇〇屯であることを理由に四〇〇屯の積載を要請したのに対し、中島友城は、右特性或いは過去における事故例につき何ら説明をなさずして、積載量を増やすことに同意し、山元から三四屯をトラツクで運んで船積し、結局、約三八四屯を積載して同月二四日午後三時頃積荷を終了した。積荷を終つて荷ならしをした荷姿は、中央部において、シフテイング・ボード上面より約三〇糎高く、前後部は約四五度の傾斜をもつて倉底に達し、前部は約二、三米、後部は約一米それぞれ床板が露出していた。

三、福興丸は、同日午後五時三〇分頃吃水船首約二・七二米、船尾約三・〇七米にて垂直状態で大阪港向け出港した。出港当時、天候は曇で、南西の軟風が吹いていた。同日午後六時頃鶴舞崎と鯨瀕の間を通過後、船長富岡四十治は、針路を東微南に定め、時速七・五浬にて進航中、間もなく風向きが南に変り、南方のうねりが出て、船体が横揺し始めたので、針路を種々に転じて各針路に対する横揺の程度を調べつつ、ほゞ南東の針路をとり、波及びうねりを右舷船首約四五度位にうけて進航中、積荷の亜鉛精鉱の移動のため、船体が右舷側に傾斜し始めた。同日午後六時三〇分頃富岡船長は、船体の左右横揺の状況からその傾斜を感知したので、同〇時四分頃左回頭して針路を反転し、風波を左舷船尾にうけて船体の横揺を緩和させてみると、船体が右舷側に約一〇度傾斜していることがわかつた。そこで、厳原へ引返して荷繰りをしようと考え、ほゞ西北西に針路をとり、荷繰準備のため、密閉された倉口のウエツジを取りはずしているうち、積荷移動により、船体が急激に右舷に傾斜したので危険を感じ、作業を中止して乗組員に退避の用意を命じ、同日午後七時一七分頃船体の傾斜が約四五度に及ぶに至つて、機関を停止しないまゝ、全員伝馬船で退船した。その後、福興丸は、傾斜を増しつつ、緩やかに右に回頭して一回転し、同時二〇分頃耶良崎灯台からほゞ南東微東七三〇米の水深約四〇米の地点で、船首を北東に向け、大音響を発して船首から沈没した。沈没当時、天候は曇で南の軟風ないし和風が吹き、南方からのうねりがあつた。

四、原告は、福興丸沈没の報に接し、直ちに訴外熊谷海事興業株式会社(商号を昭和三〇年一月に熊谷興業株式会社、同年三月に熊谷建設興業株式会社と変更、以下訴外会社という)に対し、沈船の状態調査を委嘱した。

(一)、捜索及び位置確認作業

右訴外会社現場主任緋田泰治は、昭和二九年八月一三日山口県徳山市を出発し、福興丸船体位置確認のため、船長富岡四十治を同伴して同月一五日厳原港に到着し、同船乗組員を救助した漁夫梅野緑の案内により漁船二隻を使用して、沈没地点附近を三日間掃海した結果、沈没位置をつきとめ浮標を設置した。

(二)、水中検査作業

緋田泰治は、ひきつづき、門司港から潜水船一隻(潜水夫二名、綱引夫二名、船員二名搭乗)を機船ばんや丸(デイーゼル機関八〇〇馬力附、船員八名搭乗)で曳船して現場に赴き、潜水夫に船体を検査せしめたところ、潜水夫は次のとおり報告した。

イ、船首材と前檣との中間部分の外板は、左右両舷とも大きな皺がある。

ロ、右舷船尾甲板に一米の亀裂がある。

ハ、船檣木造部分は流失している。

ニ、機関室に潜入不能のため主機関の状態は不明である。

ホ、船体は、僅かに右舷に傾斜しているが、その平担な船底が平担な海底の軟かい岩(通称バン)の上に密着していて隙がないため、船底部の状態は不明である(なお、水深四〇米であるから岩を堀る作業は不能)。

ヘ、右以外の部分は外観上無傷である。

右に基き、緋田泰治は、船体を引揚げたうえでなければ、全要修理個所及び修理費用見積を決定することは不能と判断し、原告にそのように報告した。

そこで、原告は、同訴外会社に対し、入渠検査の目的で、船体の浮揚を委嘱した。

(三)、浮揚作業

緋田泰治は、二五屯浮揚タンク二個及び一五屯浮揚タンク六個を搭載した七〇屯吊り起重機船一台(長さ二七米、幅一一米、深さ二、七米汽缶及びウインチ六台附、船員六名搭乗)を曳船機船幸崎丸(総屯数二六・二四屯、船員三名搭乗)で曳いて、昭和三〇年四月三〇日午後六時大阪港を出発、同年五月七日山口県光港に寄港し、株式会社松庫商店から借入れた五〇屯浮揚タンク二個を積取り、翌八日午後四時同県徳山港に入港、玄海灘を渡海する曳船作業について計画、準備し、同月一四日午前一〇時同港を発して同月一六日午後三時頃門司港に到着、株式会社松庫商店から借入れた潜水船大栄丸(長さ一三米)をも曳いて同月一七日午前六時同港を発し、午前八時頃若松港外にてすべての浮揚タンクを機船幸陽丸に積替え、これと幸崎丸の二隻で起重機船を曳航して同月一九日午前六時頃厳原港に着いた。

浮揚方法としては、先ず、船倉内にある亜鉛精鉱のうち約三〇〇屯をエアーレツトによつて船外に捨てて船体の重量を軽減し、船内及び船外に浮揚タンクを取付け、タンク内の海水を排水して浮力を生ぜしめ、最後に七〇屯吊り起重機をもつて船体を吊り海底から離して徐々に浅所に移動させることとした。潜水作業は、水深四〇米もあるため、潜水夫が降下するのに三分間、水面に浮上するのに五〇分間を要し、海底で仕事をなしうる時間は僅か一七分間にすぎず、又、潮流の強いとき、うねり、波のあるときは右作業は出来ないのであるが、当時、同地方は、折悪しく一七年振りの悪天候続きで、予想を絶して作業が進捗せず、ようやく同年一二月一四日船体を厳原港口耶良崎灯台から南南東約一三〇米の地点に移動し、ついで、昭和三一年四月一六日同港内宇都須利埼から西南西約三四〇米の地点に移動し、同年七月二〇日船体を完全に浮揚させ、倉内の亜鉛精鉱の残り約八四屯を排除し終つたのは同月末頃であつた。その後、一二号台風のため、同年九月一〇日午前四時頃福興丸が再び沈没し、起重機船及び幸崎丸は砂浜に打揚げられたが、同月一三日から再引揚に着手し、同月三〇日浮揚させることができた。

(四)、回航作業

同年一〇月一九日福興丸は、機船登美丸(総屯数二六屯)及び幸崎丸に曳かれて厳原港を出発し、同月二二日山口県室積港に入港した。ここで、曳船二隻は、福興丸を同港に置いて厳原港に引返し、同月二七日着、同年一一月三日起重機船、潜水船等を曳いて同港を出発し、途中燃料補給のため門司港に立寄り、同月九日山口県光港で潜水船及び五〇屯浮揚タンク二個を松庫商店に返却し、同月一五日徳山港で起重機船を離した。同月二二日幸崎丸は室積港から福興丸を曳いて大阪港に向い、同月二六日同港浪速船渠株式会社岸壁に繋留した。

(五)、入渠により発見した損傷

主機関(二四〇馬力焼玉発動機)は、主体部には損傷ないが、部分品が破損、濡損し、その復旧修理に七二万円(一馬力当り三〇〇〇円)を要すると見積られた。又、船体は、乾船渠に入れて検査した結果、船底及び船内二重底(ダブルボツトム)のタンクトツプが波打模様に屈曲し大破損していた。その他は潜水夫の報告どおりであつた。

右船底、ダブルボツトムの修理には莫大なる修理費を要することが判明し、同船は経済的に修理不能と判定され、廃船となるのやむなきに至つた。

五、原告は、本件福興丸沈没により、次のとおりの損害(合計四七二一万二五五八円)を被つた。

イ、八〇万円

昭和二九年八月一三日から同年九月八日までの間の沈没船体捜索及び位置確認並に水中船体検査作業費用として、原告が前記訴外会社に支払つたもの。

ロ、九七六万九三四二円

昭和三〇年四月三〇日大阪港を出発してから昭和三一年一一月二六日同港帰着までの期間、浮揚作業に要した従業員の給料、食費、宿泊料、旅費、通信費、使用船舶修理費、購入物品運賃、船体保険料、燃料費、消耗品代、その他雑費の合計一二三五万一六九八円を協議によつて減額した額で、原告が訴外会社に支払つたもの。

ハ、六〇〇万円

七〇屯吊起重機船一台の使用料で、昭和三〇年四月三〇日大阪港発から昭和三一年一一月一五日徳山港着までの間一八ケ月一五日間中、昭和三一年五月七日ないし七月二日までの休業期間(本店からの送金中絶して作業中止)を控除した一六ケ月一五日間に対し、一ケ月五〇万円の割合で計算した八二五万円を協議により減額した額で、原告が訴外会社に対し支払義務のあるもの。

ニ、一二〇万円

曳船機船幸崎丸の使用料で、厳原港着の翌日である昭和三〇年五月二〇日から同港出発の前日である昭和三一年一一月二日までの間一七ケ月一三日間から前同様二ケ月の休業期間を控除した一五ケ月一三日間に対し一ケ月一〇万円の割合により計算した一五〇万円を協議により減額した額で、原告が訴外会社に支払つたもの。

ホ、四〇〇万円

一五屯浮揚タンク六個、二五屯浮揚タンク二個の使用料で、昭和三〇年四月三〇日大阪港発から昭和三一年一一月二六日同港帰着まで一八ケ月二六日間中、前同様二ケ月の休業期間を控除した一六ケ月二六日間に対し一日一万円の割合により計算した五〇六万円を協議により減額した額で、原告が訴外会社に支払義務のあるもの。

ヘ、五一万八二一六円

潜水船大栄丸の使用料で、昭和三〇年五月一七日門司港発から昭和三一年一一月九日光港帰着まで一七ケ月二二日間中、前同様二ケ月の休業期間を控除した一五ケ月二二日間に対し一日一五〇〇円の割合によつて計算した七〇万八〇〇〇円を協議により減額した額で、原告が訴外会社に支払義務のあるもの。

ト、二六六万七〇〇〇円

五〇屯浮揚タンク二個の使用料で、昭和三〇年五月八日光港発から昭和三一年一一月九日同港帰着まで一八ケ月間から、前同様二ケ月の休業期間を控除した四八〇日間に対し一日七〇〇〇円の割合によつて計算した三三六万円を協議により減額した額で、原告が訴外会社に支払義務のあるもの。

チ、一〇〇万円

起重機船の曳船料で、幸崎丸、幸陽丸による大阪港(昭和三〇年四月三〇日発)から厳原港(同年五月一九日着)への曳船及び幸崎丸、登美丸による厳原港(昭和三一年一一月三日発)から徳山港(同月一五日着)への曳船の費用として原告が訴外会社に支払つたもの。

リ、三〇万円

浮揚した福興丸の曳船料で、厳原港(昭和三一年一〇月一九日発)から室積港(同月二二日着)までの幸崎丸、登美丸による曳船及び同港(同月二二日発)から大阪港(同月二六日着)までの幸崎丸による曳船の費用として原告が訴外会社に支払つたもの。

ヌ、二〇六〇万八〇〇〇円

沈没当時、福興丸の一船取引価額は二四〇〇万円であつたが、これから残存主機関(二四〇馬力)の価額八六万四〇〇〇円(沈没前の価額は一馬力当り六六〇〇円の割合で一五八万四〇〇〇円、これから修理費一馬力当り三〇〇〇円の割合の七二万円を控除した額)及び残存船体の価額二五二万八〇〇〇円(大阪市港区長は、原告滞納公課につき昭和三二年一月二三日福興丸船体を差押え、同年三月一八日右金額で公売した)合計三三九万二〇〇〇円を控除したもの。

ル、三五万円

被告等が故意又は過失により原告の請求を拒否するため、原告は弁護士村井禄楼を訴訟代理人として訴訟を続けざるを得なくなり、その結果同弁護士に支払うべき報酬金。

六、右損害と本件沈没との因果関係について。

福興丸は、沈没当時二四〇〇万円以上の価額を有していたが、保険に付せられていなかつたため、原告としては、沈没により直ちにこれを放棄することはできず、修理可能ならば復旧使用せざるをえなかつた。そして、そのために船体の損傷程度の調査をなす必要があつた外、沈没により原告が被つた損害を賃借人である被告熊谷海運或いは出荷人である被告東邦亜鉛に対して賠償請求する前提として、沈没原因の調査も必要であつたので、前記のとおり原告は、訴外会社に船体捜索、位置確認並に水中における船体検査を依嘱したところ、海底における検査では船体全部の損傷状態は不明とのことで、従つて、船体を放棄すべきか復旧修理すべきかを決定しえなかつたので、これを浮揚することとし、期間四、五ケ月、作業費用五、六百万円の予算のもとに計画をなし、浮揚作業に着手したのである。ところが、現地は折悪しく、一七、八年来の悪天候で、潜水作業が進捗しないため浮揚作業も遅延し、一旦浅所に引寄せ浮揚後に台風のため沈没し、再浮揚するなどして、引揚費用が予定に反し著しく嵩むに至つたが、作業自体は終始誠実に注意深く行われたのである。ところで、船体全体の損傷、とくに船底の状態を、船体を浮揚タンク及び起重機で吊つて海底から離した際に調査することは、潜水作業の実情からいつて不可能に属する。なぜなら、亜鉛精鉱がまだ八四屯も残つている総屯数二三四屯の船体に一〇個の浮揚タンクを取付け、七〇屯吊りの起重機が太い一本のワイヤーによつて辛じて船体を海底から一米程度離すにすぎないから、ワイヤーの破断等の危険があり、作業主任としては潜水夫に船底検査を命ずることはできず、命じたとしても潜水夫はこれを拒否する。従つて、船底の検査を安全になしうるのは、船体を浅所に曳引し、船体破損漏水個所を補修して船体自体の浮力により浮上させた後ということになる。福興丸を浅所で浮上させたのは昭和三一年七月二〇日であるが、この際に船体を検査し、船底の大損傷のため修理不能が判明したとしても後の祭で、そのまゝ放置すれば、主機関を含む船体の残骸の価値すら回収できなくなるから、ともかく大阪港まで持ち帰らざるを得なかつたのである。

以上のとおり、本件において、水中調査及び船体の大阪までの曳引費用は勿論、船体の引揚も、その損傷の程度及び沈没原因を知るうえ必要不可欠のもので、引揚費用が嵩んだのは、原告の責に帰すことのできない不可抗力によるものであつたから、これらが本件沈没と相当因果関係のある損害であることはいうまでもない。

七、本件沈没は、先ず、被告東邦亜鉛対州鉱業所長阿部猛男外の職員の次の故意又は過失に基くものである。

(一) 微粉亜鉛精鉱は、原鉱を粉砕し、これに水を混ぜて重液選鉱を行い、濃縮処理及び真空ろ過等の工程を経て精製された約二〇〇メツシユの微粉であるが、右の過程から水分の含有は不可避であり、その含有水分率を外観のみで判断することは容易でなく、科学的測定を要するものである。しかして、右亜鉛精鉱は、比重約四・一で水に対する親和性が乏しいため、船積した場合水分が遊離し上層部が泥状化して移動しやすくなり、かつ、船倉内において船体の動揺による傾斜或いは風波等の外力の衝撃をうけた場合、傾斜側、加力側に偏移しやすく、一度偏移すれば船体の傾斜により同側への移動が早まり、ますます船体の傾斜を増し、ついに転覆せしめるに至る危険性があつて、含有水分率が一〇%を越えるものは、一般に船積輸送に不適当とされている。これまでにも、同鉱業所から亜鉛又は鉛精鉱を船積輸送中、昭和二六年二月一日に機船第五徳豊丸が、昭和二七年五月一〇日に機船新生丸が、同月一三日に機船美津丸がいずれも前記のような積荷の移動により沈没したほか、機船第五江口丸が昭和二八年六月頃南室から契島に向う途中、積荷移動のため船体が約三〇度傾斜し、厳原港へ引返したことがある。従つて、同鉱業所としては、出荷主として、精鉱をよく脱水し、船積までの貯鉱期間を長くして自然乾燥せしめるなどして、船積輸送に危険のない程度に含有水分を減少させることが可能であり、そうすべき信義誠実義務があるのにこれを怠り、含有水分率一一・二五%をはるかに越える一三ないし一五%以上の亜鉛精鉱を福興丸に積載させた過失がある。

(二)、英国普通法上、船荷の出荷積込主は、その者が告知しない限り、海上運送人において妥当な知識及び勤勉によつてその貨物の危険特性を知り得ないが如き危険貨物を船舶に積込まないという黙示(法定)の担保義務があり、この義務に違背した場合には、出荷積込主においてその貨物が事実上危険であつたことの知、不知を問わず、それによつて生じたすべての損害を賠償する責任があるとされている。この法理は、我が国においても、正義、衡平、誠実、条理上の原則として同様に認めらるべきものである。ところで、本件亜鉛精鉱は、静止の状態では危険性はないが、船舶に積込まれ、船体が動揺し始めると危険となるので、かゝる物も右の危険貨物というべきである。右の亜鉛精鉱の危険特性は、当時一般の船員に知られておらず、船舶貨物積載法の教科書にも記載がなく、亜鉛精鉱の荷ずれによる過去の事故に対する海難審判庁の裁決録の如きは、一般の小型船の船長は購読しないのを常とし、又、その資力もないところから、福興丸船長は亜鉛精鉱の右特性を知らなかつた。これに反し、対州鉱業所長は、過去五件の亜鉛又は鉛精鉱の荷崩れ事故(内三隻沈没)により、右精鉱の危険特性を知悉していたのであるから、同船長に対し、右特性を告知し、過去の遭難の実情を披歴し、かつ、含有水分率を科学的に検出して正しく報告し、もつて同船長をして亜鉛精鉱の船積方法及び航海方法を誤らしめないように努めるべき協力義務があるにもかかわらず、これを告げれば、同船長が船積を拒絶することを恐れ、同鉱業所船積主任中島友城が、かえつて、亜鉛精鉱の特性、過去の実例、水分率を同船長に秘匿し、同人を欺いて船積させた故意又は過失がある。

なお、同鉱業所長には、本件亜鉛精鉱の正確な含有水分率が、福興丸船積当時まだ不分明であつたのに、そのまゝ積載させた過失がある。

(三)、被告東邦亜鉛対州鉱業所から亜鉛精鉱を輸送する場合の積荷海上保険は、昭和二五年以降大阪住友海上保険株式会社外二社が共同して引受けていたが、前記のとおり、昭和二六、七年に相ついで三隻の輸送船が沈没したので、昭和二七年七月右三保険会社は、被告東邦亜鉛に対し、安全輸送の為の特別施設を講ずべきことを申入れ、同年八月五日同被告においてこれを諒承し、申入れのとおりシフテイングボードその他の安全措置を実行する旨回答した。他方、我が国の損害保険業者の団体である損害保険料率算定会においても、この点につき研究した結果、「微積含水微粉鉱石の損害保険」と題する覚書を作成し、その中に海上保険引受の特別約款を定め、昭和二七年一二月二〇日の出航船からこれを施行することになつた。右特別約款は、要するに、右鉱石の積取船には貨物の倉内移動を防止するに足る十分な高さを有する縦通隔壁又はこれに代るべきシフテイングボードの設置を必要とし、その設置のないときは、保険業者において損害填補の責に任じないことを定めたものである。そこで、前記三保険会社は、あらためて、昭和二八年一月二〇日付文書をもつて同被告にこの旨通告したところ、同被告はこれを承諾し、以来、同鉱業所から亜鉛(又は鉛)精鉱を船積する各船舶に対し、自らその設置をなしてきたのであり、海上運送人(船側)にこれを施工させたことはなかつた。

同被告が福興丸に設置したシフテイングボードは次の如きものである。福興丸の船倉は、長さ約二〇・二米、幅約八・七米で倉底はタンクトツプに床板が張つてあり、倉口は長さ約一二・六米、幅約六・六米であるが、先ず、倉内前部隔壁から約二・五米のところにある前檣と後部隔壁から約二・五米のところにあるサウンデイングパイプとの間の船首尾線上に、幅約一五糎、厚さ約九糎の松材を六インチ釘でその両側にそつて約九糎のの角材を二つ割にした三角材を五インチ半釘でそれぞれ床板に打ちつけて根太とし、前檣からサウンデイングパイプに床板上約一・五米の高さにわたした幅約一五糎、厚さ約一二糎の松材の桁と右根太との間に同じ寸法の松材をほぞ差しにした柱を四、五本立て、これに厚さ約三・六糎の松板を取付け、右の桁を末口約一二糎の杉丸太で倉内両舷側から支えたが、いずれも釘又はかすがいを使用した。

右のシフテイングボードは、次の点において不完全である。

1 倉内に全縦通しておらず、前後部隔壁との間隙が各約二・五米あり、又、その高さが積荷より低く、積荷が前後部及び上層部において左右相通じているため、積荷の移動防止に役立たない。

2 材料の寸法が細少すぎたため、脆弱であつて、積荷の重量に耐えることができず、屈曲又は破損しやすい。

3 船体との取付部分が釘やかすがいだけで、ボルトナツトを使用していないので、積荷の重量により、シフテイングボードが船体から離脱しやすい。

ところで、移動するおそれのある貨物に対して船倉内にシフテイングボードを設置することは、海上輸送上の常識であるが、この施工を荷送人がなすか、運送人たる船舶側がなすかは、両者間の協議によつて決せられる。本件においては、前記のとおり、被告東邦亜鉛の保険契約上の理由から、同被告対州鉱業所においてこれを施工することになつたのであるが、いやしくも、施工する限りは、船舶の横揺によつて生ずる表面漏出水の遊游、沈下せる貨物の傾斜重量に耐えるだけの安全性のあるものを設置すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、前記のとおり、不完全なものを設置した過失がある。

(四)、対州鉱業所長としては、亜鉛精鉱をシフテイングボードの上面より高く積載すると、左右相通じて片舷に偏移し、船体を傾斜せしめる危険があるから、その上面よりも低く積載すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず(福興丸側は、本貨物の危険特性を告知されていなかつたので、その認識が浅く、積載方法を出荷側に任せ、右積載方法の不備に気付かなかつた)、その上面よりも約三〇糎高く積んだ過失がある。

(五)、被告東邦亜鉛は、過去の事故例に鑑み、昭和二七年八月五日付文書をもつて、日新火災海上保険株式会社に対し、船舶の積載量をその船の規定積載量の七〇%に制限することを約諾したのであるから、福興丸についても、その最大積載量である四二〇屯の七〇%即ち二九四屯に制限すべき業務上の注意義務があるのに、九〇屯超過の三八四屯を積載させた過失がある。

(六)、以上の被告東邦亜鉛対州鉱業所長の過失の前提となる注意義務は、直接には、同被告が海上運送契約上被告熊谷海運に対して負うものであるけれども、およそ、船舶は海上における危険、運命共同体であり、船舶が遭難すれば、乗組員、旅客、積荷、船体等は共同して損傷或いは滅失し、その利害関係人が多数であるから、もし、出荷主が海上運送契約上の注意義務に違背したことにより、契約外の船舶利害関係人の権利を侵害した場合には、これに対し不法行為責任を負うものと解すべきである。従つて被告東邦亜鉛対州鉱業所長は、前記過失により、船舶所有者たる原告に対し、不法行為責任を免れることはできない。

八、次に、福興丸船長富岡四十治については、福興丸が南室を出港後、南方のうねりが出て船体が横揺し、右に傾斜しはじめたさいに速やかに厳原港に引返すべきにかかわらず、その時期を失した業務上の過失があり、これも、本件沈没の一因である。

九、以上のとおりであるから、被告東邦亜鉛は、対州鉱業所長阿部猛男の使用者として、被告熊谷海運は、福興丸船長富岡四十治の使用者として、それぞれ、不法行為による損害賠償の責に任ずべきところ、同鉱業所長と同船長は共同不法行為者であるから、右被告等も連帯して右損害賠償義務を負うものである。よつて、原告は被告等に対し、連帯して、原告の被つた前記損害金四七二一万二五五八円から、原告が参加人国に譲渡した分三百万円を控除し、更にその内金三五〇〇万四五五八円並にその内の三四六五万四五五八円に対する昭和三二年(ワ)第六七一号事件訴状送達の翌日である同年九月三日から、その内の三五万円に対する原告第六準備書面陳述の翌日である昭和三六年一〇月二八日から右各支払済まで年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

第二、原告の請求原因に対する被告東邦亜鉛の答弁及び抗弁

一、原告の請求原因一ないし三中、原告主張の日時に福興丸が被告東邦亜鉛対州鉱業所貯鉱舎前に繋留されたこと、同鉱業所側において、同船にシフテインボードを設置したこと、原告主張の日に微粉亜鉛精鉱(但し、その量は三八一屯である)を同船に積込んだこと、同船が原告主張の日時に出港したこと、出港当時原告主張の如き天候であつたこと、原告主張の日時に同船が沈没したことはいずれも認めるが、その余の事実は否認する。請求原因四、五記載の事実はいずれも不知、被告東邦亜鉛対州鉱業所長に業務上の過失ありとする原告の主張は否認する。

二、福興丸の沈没は、同船の不堪航性に基因する。

即ち、

船舶安全法に基いて福興丸に与えられた検査証書によると、同船の船級は三級であるが、船舶安全法施行規則第三〇条、第二七条によると、その航行区域は、沿岸区域のうち特に本州、四国、九州等の各海岸から二〇海里以内に限定され、これを越える航行は禁止されている。しかるに、福興丸の沈没地点は、対馬厳原港から約二海里の地点で、本州又は九州から二〇海里をはるかに逸脱することは明らかである。つまり、同船は、対馬沿岸を航行することも、対馬、本州間を航行することも、ともにその資格と能力を欠くもので、そのような航行の安全を保障しえない船であつた。加うるに、本件事故は、天候平穏時でもうねりを伴う荒海で有名な玄海灘を横断する航路の途中で起つたものであり、又、同船が吃水浅く、船幅の広い特殊の船型をなしていること及び船長以下の乗組員の能力の欠缺からして、沈没事故は、いずれは発生すべきものであつた。なお、昭和二八年一一月三〇日原告と被告熊谷海運間に締結された福興丸の裸傭船契約書には、航行区域として「Aの2」と記載してあるが、これは、北緯四〇度以南の日本沿岸区域の表示であつて、対馬を含むから、原告自身、被告熊谷海運をして違法にして危険な前記航路への就航を契約上認めていたものであり、右不堪航性に基く事故につき原告もその責を免れることはできない。

三、本件沈没原因は、積荷である亜鉛精鉱の移動によるものではない。

(一)、原告において、亜鉛精鉱が含有水分率一〇%を越えるときは船積輸送上危険であると主張するのは、中野正の鑑定意見に基くものと推測されるが、右中野鑑定は、船精鉱(比重六)を試料としてなされた実験を基礎とするものであつて、亜鉛精鉱(比重四・一)についてなしたものではない。含有水分率は、精鉱中の水分の全体に対する重量比で表わされるから、同一水分含有率でも比重の差のある鉛精鉱と亜鉛精絋とでは、その含有水分の容積比に大差を生ずるのであつて、船積した場合の移動可能性は、同一含有水分率ならば、船精鉱の方がはるかに大なのである。従つて、仮に船精鉱については、右鑑定どおり、含有水分率一〇%が安全輸送の限界としても、亜鉛精鉱については同様に考えることは出来ず、むしろ、含有水分率一〇%程度のものは船積に適するとされているのである。

(二)、対州鉱業所は、別紙一覧表のとおり、対馬から本州に向けて、鉛及び亜鉛精鉱を輸送してきたのであるが、これを集計すると、昭和二四年以降の記録の残存するもののみでも、福興丸までに約一七〇回に達し、そのうち、シフテイングボードの設置なくしてなされた事例も一〇〇回以上である。これらの山許測定含有水分率は、いずれも九ないし一三%で、大部分といえる一五〇例は一〇%を越え、又一一%以上のものも一〇〇例に及んでいる。そして、右のうち、僅かの例外を除いては、悉く本件と同一の航路を鉛又は亜鉛精鉱を積載して、しかも大部分はシフテイングボードなくして無事輸送しているのである。右の各事例において、航海中の天候は不明であるが、山許の出鉱に伴い、年間を通じ継続的に船積されている関係上、荒天に遭遇した事例も多かつたであろうことは疑う余地がない。従つて、福興丸の場合、平穏な天候の下で、しかも船積後僅かの後に、仮に、横揺によつて積荷が移動し船体を傾斜せしめたとするならば過去における大部分の船にも又同じ現象が発生した筈であるといわねばならない。原告は、右の過去の安全輸送実績は、水分が一〇%以下であつたためであるに反し、本件では自然乾燥はなく、かえつて大気の湿度が高かつたため吸湿して水分が増大していたからだというが、過去の事例において、自然乾燥により積荷の水分がすべて一〇%以下になつていたという根拠はなく、又鉛及び亜鉛精鉱は吸湿性が全くないのであるから、大気中の高湿度の故に水分が増加するということはありえない。なお、本件の場合、山許衡量(三八四屯)と鉛積後の吃水による測定(三八一屯)とで約三屯の違いがあるが、これは、まさに自然乾燥による水分の減少によるものであつて、実際に復興丸に積載したときの水分含有率はほゞ一〇%程度にすぎなかつたのである。

(三)、次に過去の事故例と本件の場合を比較してみる。

(イ)、第五徳豊丸昭和二六年二月二三日午後六時出港したが、時化のため厳原港に避難し、三月一日午前六時半に出港して同日午前一一時前に沈没した。厳原に避難している間の状況は、風力七(強風)、横揺は左右四、五度、周期五、六秒であり、同港を出た後は左右一七、八度、周期五秒であつた。

(ロ)、美津丸昭和二七年五月一二日午後三時出港、同日午後七時過ぎまで海上平穏であつたが、その後天候が悪化しはじめ、風力四ないし五(和風ないし疾風)、波浪とともにうねりが高まり、船体左右四、五度の横揺があり、甲板にしぶきが打上げる状況の下で、翌一三日になつて積荷が移動し船体が傾斜して沈没した。

(ハ)、新生丸昭和二七年五月九日午後七時過ぎ出港したが、うねりと左右五、六度の横揺のため、厳原港に碇泊し、翌一〇日午前五時半頃再出航したが、同七時頃天候が悪化して、ローリング左右七、八度となり、風も雄風となつて、同七時五〇分頃左右一五、六度、周期五秒で横揺するうちに傾斜が始つて同八時半沈没した。

(ニ)、第五江口丸 昭和二八年三月一五日午後四時半積込を了したが、同日及び翌一六日は荒天のため出港できず、一七日午前七時頃平穏となつたので出港したところ、約二時間半後に傾斜した。

以上に反し、福興丸の場合には、七月二四日午後五時半出港し、約三、四〇分後に傾斜が始り、午後七時二〇分には沈没している。そして、天候も終始風力二又は三(軽風又は軟風)で、海上平穏で横揺も軽かつたのである。即ち、過去の遭難例は、福興丸の場合よりははるかに激しい衝撃と横揺を少くとも一〇時間(美津丸)以上うけた後始めて積荷の移動による傾斜が認められたのである。

更に、福興丸自身、過去において、本件と同程度以上の水分を含む微粉硫化鉱輸送の経験を有しており、その際は、本件と異り、荒天の下に約二二時間の航海に堪えて、無事右貨物を輸送している。

以上から考えて、平穏な航海状況のもとで、出航後僅か三、四〇分で船体が傾斜した本件福興丸の場合は、その沈没原因が積荷の移動以外に求められなければならない。

(四)、南室港棧橋附近は、海底が粗岩からなり、危険な暗岩が当時存在し、低潮時には水深三米程度になるから、繋留のさい船体が損傷をうける危険があり、又、精鉱積込のさいの衝撃によつて船体のリベツトが緩み、又は、船体に亀裂を生ぜしめた実例もある。第八徳豊丸は、かつて、船体外板に損傷がありながら気付かずに積込後浸水を発見し、相当程度荷揚して始めて浸水がとまつたことがある。右の浸水の原因となつた船体外板の損傷は、その後ドツクでブレツシヤー検査をして始めて発見しえた。

右の事実から、福興丸も何らかの原因によりすでに船体に損傷があつたが、或いは積込によつてこれが生じ、貨物積載とともにこれが拡大して浸水したと考えられ、前記のとおり、過去の事故例と異つて、平穏な状況下に極めて短時間で傾斜沈没したことを考慮すると、沈没原因は、右の浸水以外にないといわざるをえない。

四、仮に、本件沈没が積荷の移動によるものだとしても、それは被告東邦亜鉛対州鉱業所長の過失によるものではなく、福興丸船長の過失によるものである。

(一)、対州鉱業所では、亜鉛精鉱を浮遊選鉱した後、フイルターで脱水に努めているが、技術的に一〇%内外の水分が残ることはやむをえない。本件では、山許測定の水分含有率は一一・二五%であつたが、その後の貯鉱による自然乾燥によつて一〇%程度になつていたことは前記のとおりである。なお、原告は、本件の山許測定量一一・二五%は信用できないというが、山許測定は、亜鉛精鉱の輸送による受渡数量が乾鉱量で決定されるため、JIS規格に従つて行つているもので、正確なものである。従つて、原告の請求原因七、の(一)の過失の主張はあたらない。

(二)、およそ、船長には、船舶の安全な航行のため、万全の注意をなすべき義務があり、船荷の積付及び操船には特に留意しなければならないのである。本件についていえば、福興丸の船体に隠れた欠陥がないかどうか、許された航行区域内であるか否かを確認するのは勿論、積荷の性質を考え、それにより積付の方法を選び、必要とあれば、シフテイングボードの設置が完全であるか否かを確め、天候に留意しつつ最も安全な操船をなすべき注意義務があり、右は、船主たる原告及び荷送人たる被告東邦亜鉛に対し、被告熊谷海運の負う法律上の義務である。

原告は、亜鉛精鉱の性質については、被告東邦亜鉛対州鉱業所側がその専門家であるに反し、船側は素人で知識がなかつたとし、右の積付上の注意義務が被告東邦亜鉛に転嫁される如く主張するが、問題は亜鉛精鉱の鉱物学上の性質ではなく、その船積輸送上の特性であるから、航海専門家たる船長の方が原告主張の如き亜鉛精鉱の船積輸送上の特性の認識が深く、従つて、その対策についても十分の用意があるべき筈である。というのは、船舶載貨法の教科書には、鉛、亜鉛、銅、鉄等の微粉精鉱の総称である含水微粉硫化鉱の載貨法について説明がなされているから、この程度のことは船員の常識と考えられ、又、過去において、亜鉛精鉱の船積による海難事故が発生しており、特に、花咲丸、第五徳豊丸については、本件事故前に海難審判庁の裁決書が出版されていたから、本貨の特性及び積付方法につき十分の研究をなしえた筈だからである。のみならず、同船長は、本件事故の前年に千葉において第八徳豊丸の船長から、亜鉛精鉱は水が浮いてきて余りよい荷物でないこと及び美津丸や第五徳豊丸の沈没のことを聞いて知つているのである。従つて、原告主張のとおり、本件において、積付方法やシフテイングボードの構造、強度が不完全であつたとしても、それは、同船長の過失に基くものというべきである。

(三)、なお、シフテイングボードに関しては、被告東邦亜鉛は保険会社に対する関係で、従来同被告の費用でこれを設置してきたのであるが、同被告としては、船積に関しては素人なので、第八徳豊丸や第五江口丸の船長の意見を求め、その指示に従つて、構造、材料等の強度、積付方法等を決定したのであつて、その後もいろいろ改良を重ね、用材を反覆使用することをやめて一回限りとして用材の質を向上させ、又、常に余分の補強材料を用意して船側の要求に応じられるよう準備していた。そして、被告としては、資材と人員の提供をなすにとどめ、その施工についてはあくまで船側の意思を尊重し、その監督のもとに行い、シフテイングボードの施工の責任の所在を変えるようなことはしなかつたし、福興丸に設置した場合も同様で、同船長立会のもとにその意見を求め、その承認のもとに、従来通り施工したのである。

(四)、被告東邦亜鉛は、福興丸に船積する亜鉛精鉱の量を三五〇屯に抑制する方針であつたが、積荷の専門家であり責任者でもある船長が四〇〇屯の積込を強く主張したので、同被告も結局妥協して約三四屯を増加することにしたのであり、仮に、このことが沈没の一因としても、それは船長の責任であつて同被告の責任ではない。

(五)、更に、福興丸出航後、船体が横揺して右傾し始めた際、もし、船長が速やかに厳原港に引返すか又は直ちに右傾防止に適切な応急措置例えば倉口を開いて荷繰りをするとか右舷ボートを左舷に移して水を入れ或いは重量物を左舷に移すなどの復元措置を早期に行つていたならば、沈没を免れえたと考えられる。しかるに、何らかかる措置を講ずることなく漫然とその期を失したのは、船長の操船上の過失である。

五、原告請求の損害額について、

(一)、原告は、本訴において、福興丸の船価に加えて、船価以上の引揚費用及び弁護士費用を損害として請求しているが、これらは、本件事故と因果関係を有する損害ということはできない。

(二)、福興丸の引揚は、全く無計画、無暴であり、その莫大な費用の支出は偶々の天候不良によるものではなく、全て原告の責に帰すべきものである。即ち、福興丸の引揚にあたつた緋田泰治は、当初の現地での作業予定は四、五ケ月であり、費用は総額五、六百万円であつたが、悪天候のため費用が増大したという。しかし、先ず、船体捜索費、往復の曳船料、回航費は、原告の主張によると合計二一〇万円であり、現地での作業費は、昭和三〇年五月から昭和三一年一一月までが一二六〇万円というのであるから、四、五ケ月間ならば(作業の停滞した期間を考慮に入れ)、約四〇〇万円となり、その外、起重機、現地曳船、浮揚タンク、潜水船の四ないし五ケ月の使用料を原告主張の単価によつて計算すると六七三万円(四ケ月)ないし七八八万円(五ケ月)となり、以上を集計すると、約一三〇〇万円から一四〇〇万円の巨額に達する。それのみでなく、船体前部は切断して新しく継ぎ足す必要があり、又、船橋は流失していた(緋田泰治の証言)というのであるから、その修理費に内部の補修費用などを加えれば、少くとも、七、八百万円以上は必要である。このように船価を上廻わるような費用を要する引揚を無計画に強行したことは、引揚にあたつた熊谷建設興業株式会社が原告の同族会社であることを考慮してもなお不可解というほかなく、その勝手な損失を被告東邦亜鉛に転嫁しようとする原告の態度は批判の限りでない。

(三)、なお、当初の引揚予定を昭和三〇年末か翌年春(証人西邑正市郎の証言)とすれば、引揚費用だけでも優に二〇〇〇万円に達する。

又、原告は、福興丸が引揚浮上後台風により再沈没したことを強調するけれども、これによる被害日数は一〇日位であつて、全体の費用からみれば問題にならない。

六、仮定抗弁

大阪府西府税事務所は、昭和三五年七月二〇日原告の大阪府に対する租税債務滞納のため、原告が被告東邦亜鉛に請求している本件損害賠償請求権のうち、金二二二万五〇六五円を差押え、翌二一日その旨の通知が同被告に到達したから、仮に、原告の本訴請求が成りたつとしても、右差押金額の限度で、同被告は原告に対し、支払義務がない。

第三、被告東邦亜鉛の主張に対する原告の答弁

一、不堪航性の主張について

(一)、福興丸の船級が第三級であり、航行区域が本州、四国、九州の各海岸から二〇海里以内とされていることは認める。しかし、対馬は、行政区劃上長崎県に属するから、福興丸の航行区域中の「九州沿岸」に含まれる。そうでないとしても、山口県、福岡県等本土の沿岸から二〇海里の沖も、対馬の沖二海里(沈没地点)も同様に平穏時うねりのある玄海灘であつて、実質的には何らの径庭がない。

(二)、そもそも、航行区域を逸脱したような場合には、その結果、取締法規たる船舶安全法によつて刑罰を科せられ又は船舶保険契約上の保険金填補を拒否せられることはあつても、それがために荷送人たる被告東邦亜鉛対州鉱業所側の不法行為責任を免除する理由にはならない。換言すれば、同船の規定外逸脱航海と本件沈没とは相当因果関係がないのである。

二、沈没原因について

福興丸は、昭和二三年八月に進水した鋼船で、昭和二九年三月二七日管海官庁の中間検査に合格していたから、船体外板のリベツトの緩みとか損傷とかは考えられない。現に、同船の南室出航後沈没までビルジ(外板やパイプからもれた水や貨物から出た水が船底にたまつた汚水のこと)は全然なかつたのである。もし、被告東邦亜鉛主張のように海水が浸入したとすれば、どちらの舷から浸水したとしても、左右前後に拡がるから、船体を片舷のみに大傾斜させることはありえない。又、同船出港時の吃水は、船首が二・七二米、船尾が三・〇六米であるから、海水浸入とすれば、船尾に海水が集つて船尾から先に沈没する筈である。しかるに、同船は船首を先にして沈没しているから、沈没原因は積荷の移動以外に考えられない。

第四、参加人国の請求原因

一、原告(熊谷組工業株式会社)は、その所有の福興丸が被告東邦亜鉛の不法行為により沈没したことにより、同被告に対し、四七二一万二五五八円の損害賠償請求権を有している。右債権の発生原因事実の詳細は、原告主張のとおりである。

二、参加人国は、昭和三三年三月一二日原告から右損害賠償請求権のうち三〇〇万円の請求権を譲受け、同年七月九日原告から被告東邦亜鉛に対し、その旨の通知がなされた。

三、よつて、同参加人は、被告東邦亜鉛に対し右三〇〇万円の損害金及びこれに対する本件参加申立書送達の翌日である昭和三三年一〇月四日から右支払済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第五、参加人国の請求原因に対する被告東邦亜鉛の答弁

参加人国の請求原因事実中、原告が被告東邦亜鉛に対し、損害賠償請求権を有するという点は否認し、参加人国主張の債権譲渡通知が原告より同被告に対しなされていることは認め、その余は不知。

第六、参加人大阪府の請求原因

一、原告(熊谷組工業株式会社)は、その所有の福興丸が被告東邦亜鉛の不法行為により沈没したことにより、同被告に対し、三七六五万四五五八円の損害賠償請求権を有している。右債権の発生原因事実の詳細は原告主張のとおりである。そして、原告は、昭和三三年三月一二日右債権のうち、三〇〇万円の部分を参加人国へ債権譲渡したから、残額は三四六五万四五五八円である。

二、参加人大阪府は、原告が同参加人に対し、総額二二二万五〇六五円の租税債務を負担しているのにその履行をしないので、昭和三五年七月二〇日原告の右損害賠償請求権のうち、右滞納金額相当の範囲内において滞納処分を行い、同月二一日その第三債務者である被告東邦亜鉛に対し、差押通知書が送達されたから、同参加人は原告に代つて、その債権を取立てる権利を取得した。

三、よつて、同参加人は、被告東邦亜鉛に対し、右二二二万五〇六五円の損害金及びこれに対する本件参加申立書送達の翌日である昭和三五年一二月一三日から右支払済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第七、参加人大阪府の請求原因に対する被告東邦亜鉛の答弁

参加人大阪府の請求原因事実中、原告が被告東邦亜鉛に対し、損害賠償請求権を有するという点は否認し、同参加人が、その主張の債権差押通知書をその主張の日に同被告に送達したことは認め、その余は不知。

(証拠関係)<省略>

理由

第一、原告の被告東邦亜鉛に対する請求について

一、福興丸沈没までの経緯

当事者間に争のない事実と、成立に争のない甲第二号証の二、同第三、四号証、同第六、七号証、同第八号証の一ないし八、同第九号証、同第一四号証、同第一七ないし二〇号証、同第二七号証の二、同第三七、三八号証、同第四〇号証、同第四四号証、同第四六ないし四八号証、同第四九号証の一、二、同第五〇号証の一ないし五、同第五一ないし五六号証、同第五七号証の一、二、同第五八、五九号証、同第六二号証、同第六五号証の一、二、同第六六号証の一、二、同第七〇号証、同第八二号証、同第九〇号証、証人熊久保種子の証言及びこれによつて成立を認める甲第九六号証、証人阿部猛男、同中島友城、同梅野緑の各証言を綜合すると、福興丸が沈没するまでの経過は次のとおりである。

(一)、原告の所有である機船福興丸は、昭和二三年八月に進水した総屯数二三四屯四二、重量屯数約四二八屯、船長三七・七一米、船幅八・七米、深さ三・三米の鋼製の貨物船であつて、昭和二九年三月二九日中間検査を経ていたものであるが、昭和二八年一一月三〇日以来、被告熊谷海運が原告からこれを裸傭船して航行の用に供していたところ、昭和二九年七月一七日、被告東邦亜鉛の鉛及び亜鉛精鉱の専用輸送船第八徳豊丸のドツク入り期間中、福興丸が臨時の代船として対馬から大阪及び広島県契島まで一回約、四〇〇トンの亜鉛精鉱を三航海の約で積取ることになり、同月二二日早朝対馬阿須港南室にある被告東邦亜鉛対州鉱業所貯鉱舎前の桟橋に船首を外に向け右舷側を接して繋船した。

(二)、同鉱業所側では、業務課運輸係の中島友城の指示で、早速、工作課建築係長間谷通義外数名が福興丸の船倉に積荷移動防止のため、次のようなシフテーグボードを設置した。即ち、同船の船倉は長さ約二〇・二米、幅約八・七米で、倉口は長さ約一二米、幅約六・六米であつて、倉底はタンクトツプに床板が張つてあるが、先ず、倉内前部隔壁から約二・五米のところにある前檣と後部隔壁から約二・五米のところにあるサウンデイングパイプとの間の船首尾線上に幅約一五糎、厚さ約九糎の松材を六インチ釘で、その両側にそつて約九糎の角松材を二つ割にした三角材を五インチ半釘で、それぞれ床板に打ちつけて根太とし、前檣からサウンデイングパイプに床板上約一・五米の高さにわたした幅約一五糎、厚さ約一二糎の松材の桁を右根太との間に、同じ大きさの松材をほぞ差しにして柱四、五本をたて、これに溝をほり、厚さ三・六糎の松板をはめこんで、右桁を末口約一二糎の杉丸太で倉内両舷から支えた。右シフテイングボードの取付部分はすべて釘又はかすがいが使用された。またシフテイングボードは前述の通り船倉の前壁から後壁まで縦通せずして前部及び後部に若干の間隙があつた。

同鉱業所では、昭和二七年までは、シフテイグボードの設置してない船を使用して亜鉛精鉱等を運んでいたが、昭和二七年二月二三日に第五徳豊丸が、昭和二八年五月九日に新生丸が、同月一二日に美津丸が相ついで積荷移動のため沈没したことが契機となつて、我が国損害保険業者の団体である損害保険料率算定会において「微積含水微粉鉱石の海上保険特別約款」を作成し、その適用により、含水微粉鉱石を海上輸送する場合には、その倉内移動を防止するに足る縦通隔壁又はこれに代るシフテイグボードを設置した船舶による場合でなければ、保険会が積荷の損害填補の責に任じないことになつた結果、昭和二八年一月以降は、同鉱業所において輸送船に木製のシフテイングボードを設置することとし、第八徳豊丸の船長の意見を参考にしてこれを設計し、その後、一部改良したりして福興丸に至つたものである。

(三)、福興丸の本件航海における亜鉛精鉱の積載量は、鉱業所側では、同船が四〇〇屯積める船であるが、亜鉛精鉱の輸送が初めてであるということから、三五〇屯を予定し、貯鉱舎にそれだけ用意していたが、同船船長富岡四十治が採算上四〇〇屯積載を主張したので、山許から搬出後間もない三三・九屯を余分に積載することにした(甲第九、一七及び二〇号証、証人中島友城の証言)。同船の船積は、七月二三日午前九時から始められ、同日午後五時三〇分頃一亘中止され、翌二四日午前八時三〇分頃再開して同日一〇時頃終了した。船積荷役は、同鉱業所側が対馬通運株式会社請負わせてやつており、その積込の間、船側は船長と一等航海士松井昭が、鉱業所側は中島友城が立会い監督にあつたが、船側は亜鉛精鉱の船積経験がないため、殆んど鉱業所側にまかせていた。積込方法は、人夫が貯鉱舎から手押車に約一屯の亜鉛精鉱をのせ約四、五米の高さにある桟橋の上から船倉に落し込むもので、その際、船体のうける衝撃を緩和するため、最初のうちは二枚のハツチボードをビームの上に間をすかせて置き、中間受けとした。又、右舷側は、落下の勢いで全体が固く荷詰りしたのに反し、左舷側は、舷側附近に桟橋がとどかぬため、その部分は人夫の手でならしたので、いくらか空隙を生ずる可能性があつた(甲第四九号証の一)。又、船倉の片舷側に多く積込まれると、その圧力でシフテイングボードの支柱と支柱間に差し込まれた板が弓なりに彎曲することがあつた(甲第四及び九号証)。二日目の七月二四日は、早朝から午前一〇時頃まで雨が降つていたが(甲第二七号証の二)荷役は午前八時三〇分頃から行なわれ、先ず、船倉の船首に近い部分を開放して他はカバーをかけたまま積込み、午後から船尾の方を開放して積込んだ(甲第四号証)。一応積込が終つてから、一等航海士松井昭の指揮で約四〇分にわたつて荷ならしが行なわれ、船の左右の傾きをなくしたうえ、船倉を閉め、防水カバーをかけ、ウエツジ、ラツシングを施した。積付終了後の荷姿は、シフテイングボードは殆んど積荷の下に埋没し、中央部においては積荷がシフテイングボードより一尺程高くなつており、シフテイングボードの左右の支えの舷近くの部分がみえる程度で、前後部は、約四五度の傾斜をもつて倉底に達し、前部は約一米半、後部は約二米倉底が露出していた(甲第四、九及び一七号証)。なおこれより先、積荷がシフテイングボード上一尺も高くなつているのをみて、同船長が中島友城に大丈夫かと質したところ、中島がどの船でもその位高く積んでいるから大丈夫だと答えたので、敢えて異議を述べなかつた(甲第三七及び六二号証)。なお、同船に積載された亜鉛精鉱の含有水分率は、山許測定で平均一一・二五%であるが、その上を歩くと足跡がつき、水分がにじみ出て、粘着性のあるものであつた(第六及び九号証)。最後に吃水を測ると、全部で四〇〇屯あつたが、燃料、飲料水その他約一九屯を差引くと、亜鉛精鉱積載量は、約三八一屯であつた。

(四)、積荷を終えて間もなく、同日午後五時三〇分頃福興丸は、吃水船首約二・七二米、船尾三・〇六米垂直状態で大阪港へ向けて出港した。そのときの天候は曇で南西の軟風(風力三)が吹いていた。同六時頃外海に出て、進路を東微南に向け、時速七・五浬の全速で進航中、間もなく風向きが南に変り、南方のうねりが出て船体が横揺し始めたので(周期は五秒位)、針路を種々に転じて横揺の少ない方位を調べ、ほゞ南東に針路をとつて波及びうねりを右舷船首約四五度にうけて進航中、同六時過ぎ頃、同船長は、横揺の具合から船体の右舷への傾斜が強いことに気付いた。しかし、航行に差支えないと考え、そのまま走らせているうち、南風が和風(風力四)となり、時折スコールを伴い、波も勢いを増してきた。同六時四〇分頃になつて、横揺の具合が左に戻らず、右傾がはつきりしてきたので、左舷に慎重に回頭し、風波を船尾にうけて船体を安定させてみると、約一〇度右へ傾斜していることが分つた。そこで、同船長は、厳原港へ引返して荷繰りをしようと考え、船体の安定を考慮して波の強くないときは偏西に、波の高いときは偏北西という風に針路をとつて進み、その間にも船体は徐々に傾斜を増していたが、同七時頃船の位置が厳原から約二浬になつたので、厳原での荷繰り準備のため、乗組員に船倉を開くことを命じた。そして、その作業を約一〇分間行なつた頃、船体が急激に傾斜を増したので危険を感じ、船倉を開かぬまゝ作業を中止し、乗組員に退避の準備を命じ、傾斜が四五度に及ぶに至つて、針路を最寄りの陸岸に向け、機関を停止しないまま、全員伝馬船で退船した。その後、福興丸は大きく右へまわり、約三分間その辺を一周したが、同七時二〇分頃耶良崎灯台から南東微東七三〇米の地点で船首を北東に向け、大音響を発し、船首から沈没した。当時、天候は曇で南の軟風ないし和風が吹き、南方からのうねりがあつた。なお、同船には、沈没までビルジは特になかつた。

二、沈没原因

(一)、先ず、亜鉛精鉱の船貨としての特性につき検討する。

亜鉛精鉱(鉛精鉱も同じ)は、採掘した粗鉱を破砕し、重液選鉱、磨鉱、優先浮遊選鉱等の工程を経て精製される約二〇〇メツシユの微粉で、その後、濃縮処理及び真空瀘過によつて脱水されるが、微粉のため多少の水分が残ることは不可避である。同精鉱の含有水分率は、瀘過機の調子、瀘布の新旧、粉砕の程度等によつて異つてくるが、概ね、八ないし一三%(重量比)であり、山許からトラツクで積出すさいにサンプルを提出して、JIS規格に従つて測定するもので、結果は三日後に判明する(成立に争のない甲第一四、一九、三七号証)。亜鉛精鉱の外観は、含有水分の量によつて異るが、山許からトラツクで港の貯鉱舎まで運搬するさいに、水分率一〇、五%以下の場合には荷姿が変らず、一一ないし一二%では塊(コンニヤク)状、一四、五%になると表面が泥状となり、いずれも、坂道では荷ずれすることが多い(成立に争のない甲第一九号証、甲第六四、六七号証の各一)。同精鉱の比重は約四・一(水分を除いた真比重)であるが、(成立に争のない甲第一四号証)、外部から衝撃が加わると、加力側に偏移しやすく、移動して壁面に沈着した同精鉱は固纒状を呈し、この性質は、水分量、衝撃力が大なる程、又、実験試料の多い程著しいものである(成立に争のない甲第三九号証、証人中野正の証言)。亜鉛精鉱が船積された場合、その比重が大きいためボツトムヘビー(重心過低)となり、復元力が過大になる結果、風波やうねりにより容易に横揺し、しかもその周期が早く、その結果、前記の性質のため、荷姿が一変する。即ち、全体的に沈下し、水分がきわめて多い場合には表面に水分を遊離して精鉱が沈澱固着し、上層部が泥状となり移動しやすく、水分がそれ程多くない場合(一〇ないし一一%程度)には水分は遊離しないが表面に水分が浸出して光沢を発し、上層部(上から二尺程)がスコツプもとおりにくいような弾力性のある餅状となつて、溶岩のように四方に拡がりやすく、一度、一方に偏移すれば船体の傾斜にともない移動が早まつて、短時間のうちに船を沈没させるに至るものである(成立に争のない甲第六〇号証、同第一〇一号証の二、四、一一、同第一〇二号証の二、三、同第一〇三号証の一四及び弁論の全趣旨により成立を認める同第七七号証、なお、成立に争のない甲第九二号証は右認定を動かすに足りない)。

(二)、福興丸の沈没につき、原告は、亜鉛精鉱の右特性にもとずく積荷移動であると主張するが、被告東邦亜鉛は、積荷の移動ではなく、船体に損傷があり、そこから浸水したためであると反論するので、この点を判断する。

別紙一覧表(同表記載事実は、福興丸積載の亜鉛精鉱の含有水分率を除き、原告において明かに争わないから、これを自白したものとみなす)によると、次の事実が明らかである。即ち、昭和二四年六月九日から福興丸までに、対州鉱業所から鉛又は亜鉛精鉱が船積輸送されたのは一六七回で、そのうち一〇七回はシフテイングボードなしであり、二六回は木製のシフテイングボードを設置し、三四回は鉄製のシフテイングボードを設置しており、積荷の含有水分率は、最低八・〇〇%、最高一二・八三%で、鉄製シフテイングボード設置以外の場合で、本件の水分率一一・二五%を上廻るものは六二回に及んでいる。そして、その大部分は無事に航海しており積荷移動による沈没は、昭和二六年二月二三日の第五徳豊丸、昭和二七年五月九日の新生丸、同月一三日の美津丸の三隻だけで、他には、昭和二八年三月一五日の第五江口丸が積荷移動を起している(前記甲第六〇、七七号証。なお、成立に争のない甲第八一及び九二号証によると、本件前に富久丸が鉛精鉱を積んで荷ずれを起している)。右積荷移動例についてその状況を検討すると、

(イ)、第五徳豊丸(総屯数二二四屯)シフテイングボードなしで、比較的乾燥した亜鉛精鉱一四〇トンの上に、かなり水分の多い搬出直後の一一六屯を積載して(平均水分率一一・三二%)、昭和二六年二月二三日午後六時頃出港したが、時化模様のため引返し、七時頃厳原へ避難した。そして、天候の回復を待つて、三月一日午前六時三〇分頃出港した。出港当時北西の軽風ないし軟風が吹いていたが、うねりが大であり、同一〇時一五分頃左舷に六、七度傾き、同四五分頃転覆して浸水沈没した(成立に争のない甲第九八号証)。

(ロ)、美津丸(総屯数二二五屯)シフテイングボードなしで、水分率一〇・一一%の亜鉛精鉱二九三・五一屯を積載し、昭和二七年五月一二日午後三時頃出港した。天候は晴で南東の軽風が吹き、海上平穏であつた。午後七時一〇分過ぎに北東の風が強まり、和風ないし疾風となり、うねりが高まり、翌一三日午前一時頃船体が左に傾斜し、荷繰りしたが及ばず、同三時頃沈没した(成立に争のない甲第九九号証)。

(ハ)、新生丸(総屯数一二七屯)シフテイングボードなしで、昭和二七年五月九日午後七時一五分頃鉛精鉱(水分率九・〇七%)を積載して出港した。風は大したことはなかつたが、うねりによる横揺のため、同七時四五分頃厳原港に碇泊した。そして、翌一〇日午前五時半頃出港したところ、同七時四〇分頃風が強まり、突風を伴う雄風となつて、同五〇分頃船体の傾斜が始まり、同八時四五分四五度に傾き、同九時頃沈没した(成立に争のない甲第一〇三号証の一九)。

(二)、第五江口丸(総屯数二三〇屯)昭和二八年三月一五日木製シフテイングボードを設置して、その上一尺位の高さに鉛精鉱(水分率一〇・五一%)を積載し、多分天候不良のため、同月一七日午前九時頃出港したところ、同一一時半頃左舷に傾斜し始め、一〇分か一五分後に二五度位になつたが、船体復元のための応急措置により沈没を免れた(前顕甲第六〇、七七号証)。

右は、いずれも、海上模様が悪く、船体の傾斜が始まつたのも出港後或いは少くとも精鉱積込後かなりの時間を経過し、風波による動揺をうけた後であつて、前記の福興丸の沈没に至るまでの経過とは大分状況を異にするといえる。してみると、福興丸の沈没原因は、被告東邦亜鉛主張の如く、積荷の移動以外に求めるべきかのようにも思われる。しかしながら、沈没をきたすような浸水であれば、船体の構造上、当然ビルヂが著しく増加する筈であるが、前記甲第六、九、五四号証及び五七号証の一によれば、出港後沈没までビルヂは全然なかつたことが認められるのである。加うるに、福興丸は、昭和二三年八月に進水した鋼船で昭和二九年三月に中間検査を経たばかりであるから、船体に自然損傷があつたとは思われないし、成立に争のない乙第二及び一六号証によると、対州鉱業所の桟橋附近の水深が同被告主張のとおりであり、海底に当時暗岩があつたことが認められるけれども、過去において繋留された船がこの暗岩に接触した例は証拠上認められず、従つて、単に暗岩が存在することから、直ちに、福興丸がこれに接触したと推測することはできない。積荷時の落下の衝撃については、衝撃の大きい最初のうちはハツチボードで中間受けをしたこと前記のとおりであり、又成立に争のない乙第一四号証の一ないし三、五及び証人塙毅比古の証言によつて成立を認める同第一四号証の六によると、昭和二九年三月九日第八徳豊丸につき被告東邦亜鉛主張のような浸水事故があつたことが認められ、その原因は、機関部の甲板に大阪港でフエンダーの丸釘で突いたと思われる五粍大の穴があつたためであるが(前記甲第六七号証の一中小坂田一雄の供述)、福興丸につき、右の如き事故による損傷があつたことを認めさせるに足る証拠はない。しかも、福興丸の船体が傾斜してから沈没に至るまでの経過(前記のとおり、横揺につれて、波及びうねりを受けた舷側に傾き、短時間の間に傾斜を増し沈没に至つた)は浸水によるそれとは異ると考えられ、むしろ過去の鉛又は亜鉛精鉱移動による沈没例のそれに酷似している。

以上のとおりであるから、被告東邦亜鉛の挙示する右諸事実からは、本件沈没が浸水によるものと認めることはできず、証人塙毅比古の証言によつて成立を認める乙第一五号証の一、二によつて認められる北新丸の積荷塩濡事故は、船体の横揺によりビルジがはげしく動揺したため艙底附近の積荷が濡れたもので、浸水によるものか否か明確ではないから同被告の主張事実を証するに適せず、他に同被告の右主張事実を認めるに足る証拠はない。そうすると、前記亜鉛精鉱の船積特性及び福興丸の沈没に至る経過から考え、本件沈没は、積荷の移動によるものと認めるほかない。

(三)、そこで、すすんで本件における積荷移動の原因について考える。

鉛又は亜鉛精鉱が船積された場合、その含有水分が多く、又うねりによる横揺風波による衝撃が大でかつ長時間にわたる程、移動して荷ずれを起しやすいことは前記のとおりである。

本件亜鉛精鉱の含有水分率は、前記甲第一九、二〇号証によると山許測定で平均一一・二五%であつたことが認められる。原告は本件亜鉛精鉱は踏むと足跡がつき、その跡に水分が浸出したことから、実際には水分率は一三ないし一五%であつたと主張するけれども、単に、一部の亜鉛精鉱にそのような現象がみられたからといつて、そのことから、直ちに本件亜鉛精鉱全体の平均含水量を推測することはできない。含水量の山許測定が前記の如き目的、方法で行われる以上、他に格別の反証のない本件においてはこれを信頼するほかない。次に、原告は、本年亜鉛精鉱が山許から搬出後、梅雨時のため吸湿して水分が増加したというが、成立に争いのない甲第一〇一号証の八及び証人阿部猛男の証言によると、亜鉛精鉱には吸湿性がないため、高湿度の大気中でも水分が増加することはないことが認められる。成立に争のない甲第一五九号証は右認定を動かすに足りず、他に船積までに水分を増加させるような事情を認めるに足る証拠はないから、福興丸積込の際も水分は一一・二五%を越えるものではなかつたと認めるのが相当である。そこで、右水分率を前提にして論を進める。

別紙一覧表の過去の輸送実績をみると、対州鉱業所から毎月二ないし六回づつ四季を通じて船積輸送されているのであるから、悪天候の場合もかなりあつたと思われるのに、含有水分率が一二%を越えるものさえシフテイングボードなしで無事航海を終えており、荷崩れした例は、むしろ水分率がさほど多くない場合に属している(第五徳豊丸一一・三二%、美津丸一〇・一一%、新生丸九・〇七%、第五江口丸一〇・五一%。もつとも、後二者は、鉛精鉱であるから、比重を亜鉛精鉱のそれにひき直せば、水分率は、幾分大きくなる)そうすると、含水微粉精鉱の船積したさいの移動性は、一定の飽和点までは、含有水分の多い程大であるが、飽和点に達したあとは、特に変らないものではないかという推測が成りたつ。そしてその飽和点は、右の事故例から考え、一〇ないし一一%ではないかと思われる。

美津丸の場合をみると、同船は前後三回亜鉛精鉱を輸送しているが、第二回、第三回目とも、うねりや風波による横揺等海上模様は殆んど同様で、積載した亜鉛精鉱の水分率は、第二回目が一〇・一三%で、第三回目が一〇・一一%であるのに、第二回目は無事航海を終え、第三回目は沈没している。(成立に争のない甲第一〇二号証の二及び三)又、新生丸も、前後三回鉛精鉱を輸送しているが、第二回目は、水分率一〇・〇二%の鉛精鉱を積み、ひどい時化で、はげしいうねりのため、阿須港を出てから、対馬南端の豆酸港に一八時間、更に浅藻港に一〇時間避難した末、途中鉛精鉱の上にたまつた水分を流したりしながら、荷崩れすることなく無事航海を終えているのに反し、第三回目は、第二回目より少い水分率九・〇七%の鉛精鉱を積み、前記のような海上模様で、第二回目程ひどくなかつたのに積荷移動のため沈没している(成立に争のない甲第一〇三号証の七、同第一四号証)。このことからみて、含水微粉精鉱の移動の原因となるのは、その含有水分の量やそのうける動揺の大きさ及び時間のみではなくて、そのほかにも種々の要素が重なり合つて移動を惹起するものと考えざるをえない。そのようなものとしては、特に、精鉱の積付の具合が重要と思われ、例えば、積付のさい、高所から精鉱を落し込めば荷詰りの具合が平均にならず、積まれた精鉱が船倉の部分部分によつて含有水分を異にすれば不安定となるし、又、通常の積み方ではボツトムヘビーとなつて横揺が激しくなり、又、倉内の通風がわるいと、輸送中、自然乾燥による水分の減少がないなどである。(成立に争のない甲第三五、八一、九三号証)。積付以外では、船型やその大小による横揺の具合や操船方法が考えられる。福興丸における亜鉛精鉱の積付をみるに、七月二四日は朝から雨中で船積荷役が行われた結果、倉内に入つた雨量は〇、一二五立方米で全体では〇、〇〇三%の水分増加に過ぎないが(成立に争のない甲六七号証の一の理事官意見)、局部的に水分の多い層が出来、又、船倉内板が濡れてすべりやすくなつたと考えられること、同船が他船に比べ船幅の広いこともあつて、固定した桟橋から落し込む亜鉛が左右一様に積込まれず、右舷側がとくに固く荷詰りし、従つて、左右の吃水平均をとるためには、左舷により高く積まざるをえないこと、予定外の三三・九屯は山許から搬出して間もない自然乾燥度の少ないもので、これが、先に貯鉱されていた分の上に船積され、シフテイングボード上一尺も高く積載されたこと、などが問題である。そして、その結果として、海上模様は悪くなかつたのに、出港後、右舷船首四五度の方向からのうねりによる横揺をうけて、先ず、シフテイングボード上にかぶさつている部分が漸次右に移動し、これによる船体傾斜のため、うねりによる横揺にともない左右両舷のそれぞれにおいて上層部が糊状になつて右側へ移動し、そして、同精鉱のシフテイングボードを押し上げる強い圧力によりこれが船底から離脱したか、或いは、船の横揺とうねりや風波の各周期が一致して船体が大きく傾斜した際に、シフテイングボードが同精鉱の重量に耐えられずに損壊したかのいずれかにより、左舷側の同精鉱が右舷側に移動して船体を急激に傾斜せしめ、沈没に至らしめたと考えるのが最も自然である。右認定を動かすに足る証拠はない。

なお、被告東邦亜鉛は、本件亜鉛の山許搬出時の重量が三八三・九屯であつたのに、船積時に吃水で測定した重量が三八一屯しかなかつたのは、船積迄の間の自然乾燥によるもので、従つて、船積時には含有水分率は一〇%程度に減少し、積荷移動の危険性は少なかつたというが、鉛又は亜鉛精鉱を船積した場合、ボツトムヘビーを避けようとして山積みにするため、船体中央部にその重量がかかつて、船体が彎曲し(前記甲第三五号証によると、第三五辰己丸の場合、亜鉛鉱三九〇屯を積載したところ、船体中心部の吃水と船首、船尾の吃水平均に三・五糎の差があつたことが認められる)、その結果、船首と船尾の吃水を平均した値は、真の吃水値より少く出ることが明らかであるから、福興丸の船積重量三八一屯は、正確とはいえず、同被告の右主張は採りえない。

(四)、次に、不堪航性の主張について判断する。

福興丸の船級が第三級で、航行区域が本州、四国、九州の各海岸から二〇海里内とされていることは当事者間に争がない。原告は、対馬は長崎県であるから、右航行区域に含まれるというが、船舶安全法は、航行の安全の見地から、行政区劃とは無関係に航行区域を定めているのであるから、右の「九州」は九州本土を指すと解すべきである。

そうすると、対馬が最も近い九州本土からでも二〇海里以上離れていることは公知の事実であるから、福興丸は、右航行区域を逸脱して航行したことになるが、航行区域を定める法条は、単に船舶の航行の安全確保という行政上の目的に基く取締規定にすぎないのであつて、その逸脱が直ちに当該船舶の堪航能力の欠如を意味するものではないし、右航行区域逸脱と本件沈没の間に相当因果関係が存したことを認めるに足る資料がない。

三、福興丸船長の過失

およそ、船長は、当該船舶の航行の安全保持のため、万全の注意をなすべき職務上の義務を有する。そして、特に、船貨の積付及び操船は、航行の安全と直接の関係を有するから、船長たる者は、貨物が航行中荷崩れなど起すことのないようその特性に応じた積付をなし、かつ、海上模様をよく見極め、適確な操船をしなければならない。前叙認定事実によると本件沈没の原因は、第一に、亜鉛精鉱の積付及びシフテイングボードが同精鉱の移動しやすい特性を十分考慮に入れないところの不完全なものであつた点にあるが、第二には、出港後、船体の傾斜に気付いたときにいち早くその復元措置を講ずるとか、或いは、最寄りの港に引返すなど臨機の措置がとられなかつた点にある。これは、同船長の亜鉛精鉱の特性に対する認識不足従つて又その危険性の過少評価によるところが大きいと考えられる。亜鉛精鉱の特性は、当時、一般の船員に十分知られていなかつたとしても、同船長は、本件沈没の一年前第八徳豊丸の船長から同精鉱の移動しやすい性質及びこれによる美津丸の沈没をきいていたのであるから(前顕甲第九号証甲第五七号証の一)、同精鉱を現実に船積することになつた以上、文献によつてその特性や載貨法を研究し、或いは、船積経験者からその輸送上の注意事項をきいたりすべきであり、仮にその時間的余裕がなかつたとしても、対州鉱業所の関係者に対し、その特性や過去の遭難の実情をもつと詳しく熱心に尋ねることはできた筈である。にもかかわらず、漫然と、亜鉛精鉱を一般貨物と大差ないように考え、四〇〇屯の積載を主張し、その積付(シフテイングボード設置を含めて)については鉱業所側に殆んどまかせきりとして積付の不完全に気付かず、更に出港後は、沈没の危険に思い至らないため、操船を誤つたことは、同船長の過失というべきである。

四、対州鉱業所長の過失

(一)、一般に、他人の権利を侵害する危険を伴う行為をなす者は、権利侵害の結果の発生を防止すべき注意義務を負うが、右行為が業務に基く場合には、右義務は一層加重される。本件の場合対州鉱業所長は、同鉱業所から船積輸送される亜鉛精鉱の特性に基因する海難事故については、その業務の延長として、利害関係人に対し、これを防止すべき注意義務を負うと解されるがもとより、海上輸送中の安全航行については、船長が主たる責任を負うべきものであるから、右所長の注意義務には公平の見地から一定の限度があることはいうまでもない。

(二)、同鉱業所長としては、先ず、亜鉛精鉱の荷崩れがその含有水分の量に密接な関係を有することから、船積までにその水分を可及的に減少させるべきである。本件亜鉛精鉱の含有水分率は一一・二五%であつて、同鉱業所で従来船積されたものに比べれば、さして多いとはいえないけれども、成立に争のない甲第一五七号証及び前記の過去の荷崩れ例から考え、水分率一〇%前後でも移動の危険があると認められるから、船積時においては、水分率一〇%以下であることが望ましいのである(成立に争のない甲第三九、七〇及び九七号証、証人中野正の証言)。又、荷役設備も、桟橋から手押車で落下させる方法は、前記のような欠陥があるから、ベルトコンベヤー方式にするのが理想的で、この点は早くから指摘されていた(甲第八一号証)。

以上の諸点は、これが実行されればこれにこしたことはないが、企業採算の問題もあり、一概にこれを要求することはできない。しかし、前記のとおり、同鉱業所長には、精鉱の特性に基く荷崩れ事故についてはこれを防止すべき業務上の注意義務があるから、もし、右の諸点の実行をなさぬ場合には、事故防止のため適切な代償的措置を講ずべき義務があるといわねばならない。そのようなものとして、先ず、船側に亜鉛精鉱の危険特性を詳細に告知すべき義務をあげるべきである。即ち、亜鉛精鉱の含有水分が比較的多く、又、荷役設備に欠陥がある場合でも、亜鉛精鉱の特性を十分考慮に入れた積付及び操船がなされるならば、荷崩れによる事故を防止することが可能であるから、この場合には、船側が同精鉱の特性や荷崩れによる過去の海難事故の実情を知ることが事故防止上きわめて有益である。前記甲第九及び三七号証並に成立に争のない同第一五号証によると、福興丸船長富岡四十治は、これまで亜鉛精鉱を輸送した経験なく、同精鉱の特性に関する知識も殆んどなかつたことが認められる。もつとも、同船長は、昭和二六年頃銅精鉱を福興丸で一、二回輸送したことがあり(成立に争のない甲第四四及び七九号証)、又、昭和二八年秋に第八徳豊丸船長から、「亜鉛精鉱は余りよい荷物でなく、水が浮いてくる。美津丸はそのため沈んだ」旨きいていることが認められるが(前記甲第九号証)この程度の事は、亜鉛精鉱の特性に関する知識としては、とるに足りないものである。又、成立に争のない甲第一〇二号証の一一及び同第八一号証によると、亜鉛精鉱は特殊な船貨であつて、少くとも本件当時はその特性が一般の船員に殆んど知られておらず、かつ、前記甲三九号証によると、一般人が、同精鉱の外観から衝撃をうけた場合の変化-移動性を推測することは困難であることが認められる。しかし、船長としては、同精鉱を船積することになつた以上、その特性を調査して積付及び操船に過誤のないよう努めるべきであるが、船舶積載法の文献には、含水微粉鉱石として一般的、抽象的記述があるのみで(成立に争のない甲第一五七号証及び同乙第七号証の一ないし九)、もとより十分でなく、海難審判庁の裁決録を調べるのは大変な手数で、しかも、本件当時は美津丸、新生丸の裁決は未だなされておらなかつたのであるし(甲第九九号証、同第一〇三号証の一九)、又、船積経験者に尋ねるといつてもその機会は少ないと思われるから、船側が亜鉛精鉱の特性等に実際上通じていないおそれがある。特に、臨時の代船のような場合において然りである。これに反し、荷送人たる対州鉱業所長は、亜鉛精鉱の鉱物学上の専門知識を具え、実験資料も手近に豊富にあるうえ遭難した船の乗組員からその実情をきくこともたやすく、更に第八徳豊丸の如き専用船もあるから、その乗組員に船積輸送の経験から得た知識の報告を求めることも出来るのであつて、同精鉱の船積特性や過去の遭難の実情、ひいては荷崩の原因及びその対策を調査研究することもさほど困難とは考えられない。従つて、特に、本件の如き臨時の代船の場合には、亜鉛精鉱に対する認識不足は鉱業所側としても予想すべきであるから、右調査、研究の結果を船側に披露し、その認識不足を補うことによつて、荷崩れによる事故防止に協力すべきことは、公平の見地からみて当然といわねばならない。

しかるに、同鉱業所は、積荷の精鉱に損害保険をかけているためか、従来から、荷崩れによる海難事故に対し冷淡であつて本件当時までにその対策としてなしたことといえば、保険会社との約定に基くシフテイングボードを除けば、同鉱業所の関係課長、係長が会合して、海上が時化ていないときに出港すること、水分を減らすこと、当局の指図をうけること等話し合つたことがあるにとどまり(前記甲第三七号証)、積極的に、亜鉛精鉱の船貨としての特性や荷崩れの原因、対策につき調査、研究したことは認められない。しかも、本件において、同鉱業所側が船側に与えた注意事項は、時化のときは引返すことなど安全航海の点と積荷に塩水を入れないことの二点だけであつて(前記甲第一九号証)同船長から美津丸の沈没事故をきかれたのに対し、中島運輸係は「突風で沈んだそうだ」という荷崩れが原因でないかの如き返答をなし(前記甲第九号証)、又、同船長が亜鉛精鉱を泥状のものであるかのように考えていたのが、現物をみて、これなら大丈夫だと言つてその危険性を看過しているのを知つておりながら、右中島はその誤解を解こうとせずそのまま放置している(前記甲第一九号証)など、むしろ、同鉱業所側は、船側から積付やシフテイングボードに関し種々注文が出るのを避けようとして、船側に積荷の亜鉛精鉱に対する警戒心を起させまいとしていたのではないかとさえ考えられる。加うるに、同鉱業所は、当初、安全輸送の見地から福興丸につき予定していた積載量三五〇屯を、採算を理由とする船長の四〇〇屯積載の主張に妥協して、三八三・九屯に増量した。このこと自体は、同工業所側の過失を構成するに至らないと解すべきであるが、右増量により、客観的にみて事故の危険が増大したのであるから、前記告知義務の履践が一層強く要請されることになるといわねばならない。

次に、シフテイングボードの如き船内の設備は、船側がこれを設置するのが通例であろうが、対州鉱業所では、保険会社との保険契約上の特約に基き、昭和二八年以来鉛及び亜鉛精鉱の輸送船に自らシフテイングボードを設置していることは前記のとおりである。本件において、その設置が被告東邦亜鉛と同熊谷海運間の運送契約の内容に含まれていたか否かは問題であるが、設置の根拠がいずれにせよ船側は設置されたシフテイングボードの完全性に信頼して行動するであろうから、条理上、同鉱業所としては、設置する以上は、その効用を十分発揮しうるだけのものを設置すべき義務を負うに至ると解され、しかも、前記のとおり、同鉱業所側が亜鉛精鉱の水分量を危険のない程度に減少させておらず、荷役設備の不備のため積付も不完全で、そのうえ、同精鉱の特性の告知義務をも怠つている本件においては、それでもなお荷崩れによる沈没事故を防止するに足るだけのシフテイングボードを設置すべきであつたといわざるをえない。しかるに、前記のとおり、同鉱業所が設置したシフテイングボードは、積荷の上面より一尺も低く、又、差板の寸法が細小で柱等の取付部分も脆弱であり、船倉を全縦通せずして前部及び後部に若干の間隙があつて、積荷の移動を十分に防止しえなかつたのである。

以上の対州鉱業所側の注意義務違反が、対州鉱業所長阿部猛男の過失とみなされることはいうまでもなく、被告東邦亜鉛は、右阿部猛男の使用者として、その業務上の過失に基く不法行為の結果につき責任を負わねばならない。

なお、原告は、右認定の過失のほか、同鉱業所長が福興丸にその最大積載量の七〇%を九〇屯超えて積載させた過失があると主張するが、右制限は、被告と、保険会社間の保険契約上の特約にすぎず、又、船側の採算の問題もあり、或いは七〇%以上積載したとしても、シフテイングボードの活用及び積付、操船を適確になすことによつて積荷移動は十分防止しうるのであるから、右は同被告の過失を構成するものではないと解すべきである。その他、原告の請求原因七の(一)の過失の主張は、前記のとおり、その前提において失当であり、同じく七の(四)の主張は、ボツトムヘビーを避けるため、山積にするのは当然であるから、結局、右はシフテイングボードの高さが足りなかつたとの主張と同一に帰する。

五、原告の損害及びその額

(一)、原告が本件沈没によつて被つた損害として主張しているものは、福興丸船体の損害(二〇六〇万八〇〇〇円)、船体調査費用(八〇万円)、船体引揚費用(二五四五万四五五八円)及び弁護士費用(三五万円)であるが、額の点についてはしばらく措き、先ず、右各損害と被告東邦亜鉛の本件不法行為との間の因果関係の有無について判断する。

(1) 、調査及び引揚費用

一般に、所有物件が不法行為により滅失毀損された場合、通常の損害は、その物件の回復、修理に要した費用であるのが原則であるが、物件の残存価格が回復、修理費用より少いと見積られるとき(いわゆる全損)は、その物件の価格である。但し、全損であるか否かを判断するための調査費用は、性質上常に、右の通常の損害に含まれると解すべきである。ところが、本件の如く、船の沈没の場合などには、船体の思わぬ損傷のため、被害者が船を海底から引揚げてみて始めて、船の残存価格が引揚費用より少ないことが判明することがありうる。この場合には、引揚費用の全部又は一部が船の価格を超過する損害となるので問題であるが、不法行為法の指導理念である公平の原則から考え、引揚前に認識可能なあらゆる事情を考慮した上で引揚げるのが合理的と判断される場合には、被害者としては船の価格を損害として請求できぬ以上、船体を引揚げざるをえないから、右引揚費用は、船の価格とともに不法行為により生じた損害として許容さるべきであるけれども、右引揚が平均人の事前の判断においてすでに不合理と考えられる場合、即ち、その点につき被害者に過失(損害の拡大を避抑すべき注意義務の違反)がある場合には、もはや、その引揚に要した費用は、もとの不法行為とは別個独立の原因により生じた損害であつて、相当因果関係の範囲外にあるといわねばならない(大審院明治四四年一二月二〇日判決、民録八六一頁参照)

本件についてみると、証人辻祥行の証言により成立を認める甲第一二二号証及び同証言によれば、引揚後の福興丸の主機関の残存価格が八六万四〇〇〇円であること及び成立に争のない甲第一二一号証の一ないし五によれば、右主機関を除いた船体の残存価格が二五二万八〇〇〇円であることをそれぞれ認めることができ他方、原告の主張による引揚費用は、二五四五万四五五八円であるから(証人西邑正市郎、鈴木隆之助の供述により成立を認める甲一一五号証の一ないし五、甲第一一六号証に同証人両名及び証人緋田泰治の供述を綜合し、証人緋田の供述により成立を認める甲第一二八ないし一五二号各証を参照すると、船体調査費用の外に右原告主張額の引揚費用を要したことが認められる)右に述べたところに従い右引揚に関する原告の過失の有無が検討されなければならない。

証人緋田泰治(後記措信しない部分を除く)、同鈴木隆之助(第一、二回)、同西邑正市郎の各証言によると、福興丸沈没後、原告は、同族会社の熊谷建設興業株式会社に沈船調査を依頼し、同会社の緋田泰治が現場主任としてこれに当ることになり、昭和二九年八月下旬頃船体の位置を確認したうえ、潜水夫二名を使つて海底の船体の損傷模様を調査させたところ、船首両舷の外板に提灯のような大きな皺ができ、右舷船尾甲板に一米位の亀裂が生じており、船橋は流失していたが、船底は、海底が平旦な″ばん″(粘土の硬いような岩盤)のため調査ができず、又、船内の状態も不明であつたこと、緋田は、右調査結果並に引揚費用を一〇〇〇万円と見積つて原告に報告したこと、原告側はこれに基いて福興丸を引揚げることに決定し、代金等を定めずに熊谷建設興業株式会社にその引揚を請負わせ、緋田が期間四、五ケ月の予定で引揚に着手したこと、船体引揚後、大阪のドツクで検査したところ前記損傷のほか、二重船底の中間の竜骨が圧しつぶされれ、船底が波状に湾曲していて、修理不能とされたこと、以上の事実を認めることができる。証人緋田泰治の証言中、引揚費用の見積りが五、六百万円であつたとの部分は、証人西邑正市郎の証言に対比し措信できず、他に右認定を動かすに足る証拠はない。右事実中、船首両舷の大きな皺は、前記のとおり、福興丸が機関を全速にしたまま、船首から沈没したため、斜下方に向つてかなりの速力でもつて沈んでいき、その際、積荷や船体の重量による加速度が加わり、四〇米下の海底に船首から斜めに激突した結果生じたものであることは容易に推測しうる。従つて、船体の調査に当つた緋田及びその報告をきいた原告としては、福興丸が三八四屯もの亜鉛精鉱を積載しているのであるから、海底に激突した際に、倉底を支える竜骨が積荷の重量により圧しつぶされる可能性がきわめて大であることを当然考慮すべきであつた。しかも、右緋田や原告会社幹部はいずれもサルベージの専門家であるから(証人緋田泰治の証言)、なおさらである。そして、前記船首の皺の修理(船体を切断して修理する外ないと思われる)、流失した船橋の取付その他機関部等船内の補修に加えて右船底の修理(修理可能として)等、水中検査の結果から当然予想さるべき修理箇所だけでもきわめて多額の修理費用を要すると考えられ、むしろ、経済的に修理不能となる危険に想致すべきであつた。そうすると、引揚費用の見積りが一〇〇〇万円であつたことは前記のとおりであるが(引揚期間を四、五ケ月として、原告の主張する単価に従つて引揚費用を計算してもほぼ同額となる)、後記認定のとおり沈没当時の福興丸の船価は一六五〇万円であつたから、引揚前においても、右損傷の程度から合理的に考えれば、同船の残存価格が一〇〇〇万円を超えるという判断は到底出てこない筈である。それにもかかわらず、原告が福興丸引揚を行つたのは、畢竟、船底の損傷を考えず、又、全損傷箇所の修理費用の見積りを怠つた過失によるものといわねばならない。

そうしてみると、原告主張の船体引揚に要した費用は、船体の残存価格に相当する部分を除き、これをこえる部分はすべて、相当因果関係の範囲外の損害というべきである。

(2) 、弁護士費用

一般に、不法行為によつて生じた損害の賠償請求訴訟のため必要となつた弁護士費用は、これに対する応訴が明らかに理由がなく応訴権の濫用とみられ、それ自体不法行為を構成する場合には応訴によつて不法行為の直接の結果として、相手方にその賠償を請求しうることは明らかである。しかしながら、そうでない場合には、弁護士費用は単なる権利実行のための費用であつて、不法行為の直接の結果とはいえないから、客観的にみて右出費がやむをえないと考えられる特段の事情のない限り、相当因果関係がないといわねばならない(大審院昭和一八年八月一六日判決、民集二二巻一九号八七〇頁参照)、ところで、本件において、原告の被告東邦亜鉛に対する本訴請求が過大に失すること後記のとおりであるから、同被告の応訴は当然の権利行使であつて、不法行為を構成するものでないのは勿論であり、又、右特段の事情については原告において何ら主張しないのみならず、原告主張の弁護士費用の支出は、右過大請求の結果であるともいえるから、本件不法行為と相当因果関係のある損害ということはできない。

(二)、以上のとおり、被告東邦亜鉛の本件不法行為と相当因果関係のある原告の損害は、福興丸の船体の損害、船体残存価額相当額の引揚費用及び船体捜索調査費用ということになるから、その額を考える。先ず、船体の損害額と船体残存額相当額の引揚費用の合計は、沈没前の船体の価格に等しいから、この価格について考えるに、原告は二四〇〇万円と主張し、証人西邑正市郎はこれにそう証言をなしているが、先に原告が右船価を一六五〇万円と主張(第六準備書面、第一八回準備手続)していたこと等弁論の全趣旨に照らし直ちにこれを措信することはできない。他に右主張事実を認めるに足る証拠はない。そして、証人西邑正市郎の証言並にこれによつて成立を認める甲第一二〇号証の一ないし五によると、福興丸と同型船で同じ頃進水した幸陽丸が、昭和三一年五月頃代金一六五〇万円で売買されたことが認められ、本件沈没後船の市場価格が下落したという証人西邑正市郎の証言は右同様直ちに措信できず、他にこれを認めるに足る証拠はないから、昭和二九年七月当時の福興丸の船価も右と同額と認めるべきである。他に右認定を覆すに足る証拠はない。次に、船体の捜索調査費であるが、証人西邑正市郎の証言によつて成立を認める甲第一一五号証の一、及び証人緋田泰治の供述によると、右費用は八〇万円であることが認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。そうすると、被告東邦亜鉛の本件不法行為と相当因果関係のある原告の被つた損害の総額は、一七三〇万円である。そして原告がそのうち三百万円を参加人国に債権譲渡したことは弁論の全趣旨により明らかであるから、それを控除すると一四三〇万円となる。

六、最後に、被告東邦亜鉛の仮定抗弁について判断する。

公文書であることが明らかであるから真正に成立したと推定すべき丙第一ないし三号証によると、同被告主張のとおり、昭和三五年七月二〇日大阪府が原告の同被告に対する本件損害賠償請求権のうちの二二二万五〇六五円の請求権につき租税滞納による差押処分を行い、翌二一日その旨の通知が同被告になされたことが認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。そうすると、同被告が、前記認定の損害賠償義務のうち、右金額の範囲で原告に対する支払義務を免れることは明らかである。

七、よつて、被告東邦亜鉛は、原告に対し、本件不法行為による損害金一二〇七万四九三五円及び本件(昭和三二年(ワ)六七一号)訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和三二年九月三日から右支払済まで年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

第二、原告の被告熊谷海運に対する請求について。

被告熊谷海運は、原告の請求原因事実を明らかに争わないから、これを自白したものとみなし、これによると、原告の請求は理由があるというべきである。

第三、参加人国の被告東邦亜鉛に対する請求について。

成立に争のない丁第一号証によると、昭和三三年三月一二日参加人国が原告から、原告の被告東邦亜鉛に対する本件損害賠償請求権のうち、三〇〇万円の請求権を譲受けたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。そして同年七月九日原告から被告東邦亜鉛に対し、右債権譲渡の通知がなされたことは当事者間に争がなく、又、原告が被告東邦亜鉛に対し、本件不法行為により、当時、一七三〇万円の損害賠償請求権を有していたことは前記認定のとおりである。

そうすると、同被告は同参加人に対し、右三〇〇万円及び本件参加申立書の送達の翌日であることが記録上明らかな昭和三三年一〇月四日から右支払済まで年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

第四、参加人大阪府の被告東邦亜鉛に対する請求について。

成立に争いのない丙第一、二号証によると、原告が同参加人に対して負担している総額二二二万五〇六五円の租税債務を滞納したので、昭和三五年七月二〇日原告が被告東邦亜鉛に対して有する本件損害賠償請求権のうち、右滞納金額に相当する部分につき滞納処分として差押を行つたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。そして、同月二一日同被告に対し、差押通知書が送達されたことは当事者間に争がなく、又、原告が同被告に対し、本件不法行為により、当時、一四三〇万円の損害賠償請求権を有していたことは前記認定のとおりである。

そうすると、同被告は参加人大阪府に対し、右二二二万五〇六五円及び本件参加申立書の送達の翌日であることが記録上明らかな昭和三五年一二月一三日から右支払済まで年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

第五、結論

以上の次第であるから、原告の被告東邦亜鉛に対する請求は、前記第一に判示の限度で正当として認容し、その余の部分は失当として棄却すべく、原告の被告熊谷海運に対する請求は、前記第二に判示のとおり、参加人国及び同大阪府の被告東邦亜鉛に対する各請求は、それぞれ前記第三及び第四に判示のとおり、いずれも正当であるからこれを認容する。

よつて、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 森本正 菊地博 坂元和夫)

別紙

被告東邦亜鉛対州鉱業所よりの微粉硫化鉱輸送一覧表<省略>

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